【14−12】衣食住足る

 近頃、生きることの基本である、というよりも、切り離そうと思っていても切り離すことのできない「衣食住」を意識している。今までを考えると、自分の生と不可分な「衣食住」よりも、仕事のみに意識が行っていたと思う。けれども、それでは充実した日々を過ごせないと感じるようになった。
 生の充実を感じるのは、「衣食住」が充実している時のように感じる。「職」でもなく、「遊」でもなく、「衣食住」。きっとうまくまわっていると感じるのは、結局のところ、ベースである「衣食住」足るときなのかもしれない。
 そう考えると、昨年は「食」を意識した。冬の終わりから「衣」を意識し始めた。そして、今「住」を意識し始めている。春から意識し始めてはいた。けれども、なかなか実行できなかった。
 ただ、先日敬意をもつある同僚の家にお邪魔した際、美しさを感じた。職場での立ち居振る舞いに通じる「芯の強さ」を「住」から感じたのだ。「住」から、その人の哲学であったり、ふるまいを感じることができたのだ。
 そこで、自らの住を省みる。一言で言うなら「雑然」だ。だからこそ、その姿勢も雑になり、職も突き抜けることのないゆるみを生んでいるのだろう。きっと、その雑味を他者は見抜いているのだろう。雑味を抜くことこそ大切なのだ。雑味のないゆるみ、そうしたしなやかな芯の強さをもちたいと思う。
 では、雑味のない「住」とはいったいどんな「住」なのだろうか。それは、他人を招き入れることのできる「住」であると思う。開かれた「住」であるということだ。結局、「住」を閉じるということは、風通しを悪くするということなのだ。きっと、その風通しの悪さは「住」に重さをもたらし、それが結局のところ、軽やかな私であることを拒否する現況へとつながってくるのだ。
 他者に寛容であるということは、開かれた「住」をもつことなのかもしれない。それが、結局、自らの学びへと開かれていくのだと思う。学びある「住」にするには、開かれた、招き入れられる「住」へと変えていかなくてはいけない。