しゃべりすぎた 

 最近、自分はどうも饒舌になっている。必要なこと以外のことを、べらべらとしゃっべっている気がする。なんだか、自分が大した気になってしゃべっている。口は災いの元といったものだ。饒舌であることは、単なるアピールでもなんでもない。自分の存在証明としての饒舌は、ただただ自らを存在価値を軽くするのみであると思う。
 結局のところ、変な過信状態に陥っているのだ。自信ではなく、過信。たしかに、ちょっとは自分の思い通りの結果を残しているかもしれない。けれども、饒舌な自分は、過信しながらも不安な自分の裏返しなのだ。それは、決して自分を高める行為ではない。もっと、着実な仕事ぶりと寡黙さが大切になってくる。なぜなら、そこには必ず落とし穴が待っているからだ。
 その落とし穴は、自分自身の評判を低くするだけでなく、結局は余計な後悔を生むだけなのだ。自分は何者でもなく、何かを成し遂げた訳ではない。饒舌さは、誤解と後悔を生む。そのことを自分自身が一番よく知っているはずだ。饒舌が生み出す、よけいな一言が、他者だけでなく、私自身を苦しめるひとさしになる。呼吸をと整えること、ことばを整えること、無駄な言葉を吐き出さず、ゆっくりと「間」をおいた人間になれること。私自身は、まだ何者でもない。謙虚に、素直に、「間」を大切にできる、笑顔ある人間になろう。
 無駄なテンションの高さは、落とし穴に気づかないものだ。テンションをコントロールすること、そのために呼吸を整えること、そのことを意識していこう。吐くだけでなく、吸うことも大事なのだ。コミュニケーションとはあくまでも、吐くだけなく、吸うことも含めての共同作業なのだ。だから、今の自分はコミュニケーションをしているというよりも、むやみやたらに息を吐いているだけなのだ。テンションを下げ、自らを省みよう。