他者と痛み

 私はあるけがをした。しかし、それほど痛みはない。もちろん、痛みがまったくないというわけではない。けれども、けがした症状によって、痛みというよりは動作が思ったようにいかない。そして、その思い通りに行かないわたしの振る舞いをみて、人は「痛々しい」「大丈夫」という同情の声をかける。
 だが、「痛々しい」と声をかける他者の想像と私の痛みはきっと一致しないと思う。なぜなら、声をかけられるほどに、わたしは痛くないからだ。しかし、他者は私に声をかける。そして、同情する。
 身体的痛みが私にそれほどないにもかかわらず、他者は私に対してその痛みへの同情を示す。私と他者の断絶がそこにある。しかし、その断絶は絶縁とはいえない。
 なぜなら、「痛み」への同情をしているということは、何かしらの共通項があるからこそ、同情というような心を寄せることができるからだ。では、このなんともいえない「違和感」は何なのだろう。
 はっきり言ってしまえば、人が言うほど、わたしは痛くない。しかし、他者は私に対して「痛み」という点で、「患者」として祭り上げる。そうしてしまうメカニズムはいったい何なのか。私の身体、痛み、他者の想像、同情、それをつなぎあわせる「図」は何なのか、とふと考える。