信念とシステム

 残暑が厳しい。夏の暑さがひけずに、むしむしとする。それにともなって、いらいらもでてくる。それぞれの思いが交錯もせず、ただただディスコミュニケーションの日々が続いていく。
 個人的に信念をもつことは大切だ。己の方向性、信じる道を進むことは大切である。
 しかし、その一方で、私はある組織の一員として働いてる。その組織に所属するということは同時に、その組織の存立基盤であるある秩序やルールに従う義務が発生する。というよりも、社会人というのは組織人であることが多い以上、あるルールのもとで働かざるをない。
 仕事の中で、ある「私」の信念を貫けるその背景には、その組織=秩序=ルールがある。である以上、私の信念は、その秩序をないがしろにすることはできない。信念がその組織と合わないのであるならば、その組織を出るか、その組織のルールを変えていくしかない。
 おおっぴらにルールを無視し、独断専行することは時には必要かもしれない。だが、そうした緊急事態が常態化すると、組織的に動く「組織的」集団が崩壊していく。ある大枠を大幅にはみ出した、個人的信念がルールとなっていく。結果として、ある個人の判断を待つまで、組織は動かなくなる。そして、そこに属する人間は、ある個人の信念とはちがう「異見」を言わなくなり、属する人間の心が閉ざされていく。
 結果として、その他の人間は消極的になる。それに対して、ある個人は「なぜ動かない」とイライラを募らせる。そこで、なぜ他者は消極的になるのかという、想像力を働かせることができれば、問題は深くならないのだが、想像力の欠如ゆえに個人的信念によって暴走してしまうのだから、悪循環に陥ってしまう。
 ある信念が暴走し始めたとき、そのシステムの人間が制御しなければならなかった。しかし、暴走を許してきた積み重ねが「現在」なのだ。その結果として、組織には属しながらも、その組織を無視した個人的信念に基づくシステムが回り始め、閉ざされていくのだ。

[h23読了65]
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

 村上春樹がここまで、自身の文学的態度を表明したものはないのではないかと思うほど、彼が作家としての村上春樹について語っている。結局のところ、彼はスタイルに自覚的なのだと思う。そして、ストイックなのだと思う。