存在感が増す

 職場における自分の存在感が増した、そんな感覚を味わう至福の時があった。理由は、単に「受け」が良いことなのだと思う。言い換えると、我を主張しない、ということだ。悪く言えば、自分がない、おとなしすぎる。よく言えば、協調性があるということだ。
 私自身、我というものを主張しすぎて、物事が好転したというためしがない。むしろ、物事や状況がうまくいくときは、自分が我を通すよりも、スーパーバイザーとか調整役といったポジショニングを取るときのほうだ。だからこそ、知らず知らずのうちに自分は「受け」の姿勢を取っているのだと思う。
 それゆえ、吸収力があるといわれるのだと思う。なんでも受けてくれる、そんなキャラクターなんだと思う。
 しかし、そのデメリットとすると、頼りない、という印象を相手に与えることだ。自分が高評価をもらえるときは、常に最初の評価がよくなく、大丈夫かよという思いを抱かせる。だが、初期設定が低い分、そのあとの「意外な頼もしさ」が評価を変える。つまり、腰の低さが逆に武器となるのだ。そして、じわじわと存在感が増してくる。そんな感じだ。

[h23読了 35]
走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

 時折、無性に読みたくなるのが、村上春樹である。人間の毒性というものとうまく付き合うために走る作家を読みたくなるのは、ぼくが気分的にまいってしまうときなんだ。その文体が好きだ。受験勉強の小論文の延長線上で、観念的で、硬質な文を書いていた自分の文体を変えたのが村上春樹なのだと思う。彼が『翻訳夜話』で言っていた文章のリズムとうねりという、文章が持つ音楽性をぼくに気づかせてくれた。学生時代、明らかに文体を変わった時期があった。影響を与えたのは、村上春樹であり、鶴見俊輔であり、野矢茂樹なのだ。彼らに共通するのは、「やわらかくつきさす」スタイルである。

[h23読了 34]

 合理性よりも情動性という観点から人間を理解することの大切さを説く。つまり、ポストモダン的経営論なのだ。