少しずつ切り換えていく。

 自分は、そうそうすぐに切り換えの早い人間ではない。引きずるタイプだ。くよくよし続ける。
 「ああ」「ふぅ」「つかれた」というネガティブ言葉を常に吐くタイプだ。本当はポジティブな発言をしなければならないのだけれども、そうもいかない。むしろ、そうして「つかれた」と吐くことで、自分の今の精神状態を把握し、向上させようとしているのだ。というように、ネガティブ言葉とうまく付き合うようにしている。
 といっても、ネガティブな性格ということは変わらない。
 最悪を考え、ネガティブに物事をとらえる。だからこそ、どうしようかという解決策をなんとか編み出そうとする。逆に、問題解決にとっては、そうしたネガティブさや心配性が良い影響を与えてくれる。
 最近、難題となっていた案件がすこし進んだ。しかし、あくまでもそれは短期的なものである。
 長期的に見通せないこと、それがその案件のむずかしさでもあり、困難性を象徴している。短期目標を積み重ねていくこと、それしか処方箋がないと思う。
 要するに、時が経つこと、それが一番の処方箋なのだと、達観している。そうでもしなければ、逆に自分がやられてしまう。そう、確信している。

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世代間連帯 (岩波新書)

世代間連帯 (岩波新書)

 家族からではなく、個人から社会保障政策を出発していくことは『家父長制と資本制』の延長線上にあると思う。家族を出発にすることは結局のところ、近代の家父長制と資本制を前提にしている。つまるところ、近代の社会保障の前提を問い直すこと、かっこよくいえばそういうことなんだろうと思う。硬直した社会保障制度を変えるためには、発想を個に持っていくことが必要である。そして、個の生き方は多様である。だからこそ、そのシステムを多様さに耐えられるような「フレキシビリティ」がキーとなってくるのだ。

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家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平

 学生時代に読んだ1冊を再読する。自分は一時期ジェンダー論に興味があったことがあった。「らしさ」への問いである。なぜ「らしさ」を求められるのか、そうしたもやもやに輪郭を与え、分析を可能にしてくれるのが理論である。たしかに実践や現場は大切である。しかし、その実践や現場でうまれる「どうして」という疑問や「なんだよ」という怒りの構造を「なぜ、そうなるのか」という腑に落ちる形で教えてくれるのが理論である。だから、現場主義という言葉によって、理論にたいして殊更に「意味がない」「頭でっかち」と批判することに与したくないと思う。