教えること、自覚を待つこと。

 仕事は、基本的に他者とのかかわりのなかで仕上げられていく。であるからこそ、自分が常識だと思っていることが、相手にとって常識であるとは限らないという場面が多々ある。
 だから、ややこしい。
 というのも、常識とはその人の生きてきた結果としてにじみ出てくる軌跡だからだ。その人にとって、「ここまではよし」「ここまでは許せない」といった、許容範囲に関する生理的な皮膚感覚といってもよい。
 であるからこそ、相手に対して、これは「常識」でしょ、といったところで、「でも」という思いを相手が抱くということもわからないではない。
 「こういうもの」というのを教える、という行為は成立するが、それがその他者の常識なりえるかといえば、そうではない。教えることとは、結局、相手の皮膚感覚になじむ、つまり、自覚を持ってもらえるまで訴えかけることのような気がする。
 いわば、コーチングというは、教えながら自覚を促すこと、なのだと思う。一応、先輩になって思う、教えることって本当に難しいと。最近は、「教える」ということをめぐっていろいろと考えることが多い。
 そんなわけで、よく「教える」ことについて学ぶ今日このごろである。