【ノート】嫉妬と謙虚にかんする箴言

 子どもに他人の価値をより自分を評価することを気づかせると、嫉妬が生ずる。子どもはむしろ自分の理性の概念により自分を評価すべきである。したがって、謙虚とは、もともと自己の価値を道徳的完全性と比較することに他ならない。そこで、例えばキリスト教は、謙虚を教えるというよりは、むしろ人間を謙虚にするのである。なぜなら、キリスト教によれば、人間は自己を完全性という最高の模範と比べなくてはならないのであるから。自分を他人より低く評価することが謙虚であるとするのは、非常にまちがっている。―「あの子やこの子の品性をごらん!」などと呼びかけるのは、非常に卑しい考え方をもたらすばかりである。人間が他人によって自分の価値を評価しようとするとき、彼は自分を他人以上に高めようとするか、それとも他人の価値を下落せしめようとするかのどちらかである。ところで、この後者が嫉妬である。この場合、われわれは常に他人だけに罪をなすりつけようとする。というのは、他人がいなければ、これと比べられもせず、自分が最善となるであろうからである。悪意ある競争心によれば、嫉妬心がかきたてられるだけである。競争心がなおいくらかでも役立ちうる場合は、物事の実行可能性を確信させる場合であって、たとえば、私が子どもにある課題を学ぶことを要求して、他の子どもにそれができるということを示すような場合であろう。


 われわれは決して子どもに他の子どもを辱めさせてはならない。幸運の特権にもとづくところの高慢を、われわれはすべて避けるように努めなくてはならない。だが、同時に、われわれは、率直さを子どもに樹立するよう努めなくてはならない。率直とは、自分自身に対する謙虚な信頼である。これによって、人間は、その才能すべてを適当に示しうるようになるのである。率直はもちろん厚顔とは区別されねばならぬ。厚顔とは他人の判断に対して無頓着なことである。*1

*1:『カント全集 第16巻』(1966)理想社;p85−86