初めの炎を保つこと

 見田宗介は『社会学入門』の中で、初めの炎を保つことの大切さを説いている。
 現代の代表的な社会学者である、大澤真幸北田暁大との対談を読みながら、この二人の初めの炎とは、何かそれを考えていた。いわば、その研究の根はどこにあるのか、そのことを考えながら、読んでいた。特に、北田氏は、一方で、メディア・文化研究、その一方で社会・政治哲学というように、いったいその根はどこにあるのかと思っていた。と同時に、その姿勢はすごく興味深く、共感していた。そこで、その対談を読むことによって、その根がすこしずつ見えてきたような気がする。

 社会理論についてのピースミール的修正の作業は必要ですが、同時に「である」と次元を異とする「べき」の次元を理論社会学の課題として受け止めていく必要があるのではないか。関係性に照準する社会学の臨界問題としての「規範」の機能ではなく内容を問う議論をやっていく必要があるはずだ。大庭健さんの影響もありますが、そんな感じで「社会学的思考の臨界」をやってみたいと考えていたように思います。構築主義的関係論的なやり方で追い詰めていっても解消することのできない「政治」の次元を指向していたわけです。*1

 この発言はすごく共感できた。というより、自分が学生のときに言語化できずにいたもやもやしていた思いをそのまま言葉にしていくれていた。まさに、自分の所属するゼミは、系統的には社会学で、なんでもありのゼミであったが、批判や現状分析ではない、稚拙ながらも、規範(べき)のレベルを語ってみたいと思っていたからだ。

 学級委員長的価値が建前としてすら機能しなくなっているのが現代です。その意味で、どれだけ素朴であっても建前的価値の復権は必要だと思う。〔…〕社会学を認識論的・存在論的に深めていくというよりは、倫理学的に捉え返してみる*2

 ぼく自身はまず、カント的に右側に詰めていきたかったわけです。*3

 まさに、「臨界」を志向したわけだ。
 では、最後に大澤氏の根はどこにあるのか、それを紹介しよう。

 ぼくとしては要は二本立てで行きたいんです。究極的には、北田さんのように、かちっとした規範的な社会構造論をやりたい。他方でそれをもってして、ぼくらがいま直面している個々の行き詰まりの状況に応じて具体的に対応させていきたい。*4

 つまるところ、はじめに大澤氏が述べているように、ともに「理論の力」を志向しているのである。

*1:大澤真幸北田暁大『歴史のはじまり』p.121

*2:同上、p.128−129.

*3:同上、p.134.

*4:同上、p.154.