古典を読むこと。

 古典とは、読むたびに発見があるものと、誰かが言った。と王様のレストラン風に始めてみよう。
 学生時代に読んだ、といってもちょうど2回生だったころだから、かなりの前のことだ。授業の課題で出たレポートの関係で読んだ。そのときは、かなり読むのに難儀した、というか、かなり粗っぽい読み方しかできず、こんな感じというので、やっつけ仕事で読み、それでレポートを書いた覚えがある。そんな古典だ、自分にとっての『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は。
 今回、社会人になったということもあり、いわば資本主義の最前線にいるものとして、読みたくなったのだ『プロ倫』を。それが、読んでみるとおもしろい。朝、出勤中に読み。昼休み、ランチ後の休憩中に読み。そして、仕事帰り、喫茶店に入って一気に読んだ。
 註が多く、訳文もかなりわかりやすくされているので、一気に読むことができた。おもしろい。こんなこといっていたんだぁ、とノートをとりながら読んだ。「内なる光」「営利機械」「絶え間ない労働と生活の方法的合理化」といった言葉が、自分にはひっかかった。いわば、今回の読書を通じての、自分にとっての『プロ倫』のキーワードだ。これらのことばを手がかりに、またゆるゆると思索していきたいと思った。
 と、同時に学生時代に読んだ、登るのにひいてしまうような、古典を再読、あるいは未読の古典を読んで生きたいなと思う。きっと、またちがう発見があるのだろう。それが、古典の古典たる所以だろうし。