【ノート】人生・日常・哲学

 […]この問題(引用者註 いったい人生は、生きていくだけのねうちがあるか)についてのジェイムズの答案は、こうだ。人生は、既成の事実ではなくして可能性である。われわれが、自らの行動によってその可能性と取りくむものである。だから、われわれがどんな思想にのっとって、どんなふうにその可能性に働きかけてゆくかによって、人生のあり方がかわってくるのだ。まず、人生は生きがいありと信じて、われわれの心中の情熱をこの中に惜しみもなく注ぎこめ。力一杯、行動して見よ。その行動が、あるいは、生きがいある人生という既成事実を作るかもしれない。*1

 ジェイムズは「ゆるむことの福音」を説いている。そして、アメリカ人が、無用のことにオオゲサな身ぶりや表情を使って、いつも張りきった生活をしているのは、病的だと非難した。平静の時は、もっとゆったりして、精力をたくわえておくのがよい。あんまり緊張しないで、むしろ無意識の努力に身をまかせて、らくらくと仕事をする方が、かえって能率があがるかもしれないのだ。あくせく、何を毎日はたらかなくてはならないのか。もっと人生を深く静かに楽しむことがあっても良いではないか。*2

 もしもわれわれが目を十分にきたえるなら、目前に現れる一つ一つの事柄は、哲学的思索を誘い出すであろう。井戸端会議で話されるゴシップにおいて、その日その日の出来事は、一つ一つ孤立した出来事として見過ごされ、語り過ごされる。鋭い眼力を持つ市井の哲学者においては、一つ一つの出来事に誘われて壮大なパノラマが開けて来る。われわれの思索が一口話的なものに終わるか、それとも哲学的なものまで成長するかは、その思索の材料いかんによるものではなく、材料の扱い方にまったくかかっている。哲学的な見方とは、物事一つ一つを物事全体との関係において眺める仕方である。
 このように哲学を把握するならば、自分の職業が弁護士であろうと百貨店店員であろうと、その職業ゆえに哲学的思索をさまたげられることはないわけだ。それぞれの職業、それぞれの生活状態が、哲学問題についての独自の手がかりを与える。*3

*1:鶴見俊輔(1976)『アメリカ哲学(上)』講談社学術文庫p98

*2:同書p101

*3:同書p114