【ノート】『詩のみなもとへ』を読む。

 副題が、「詩と哲学のデュオ」。この副題だけで、購入。内容は、谷川俊太郎の詩に長谷川宏が散文をつけるというもの。デュオというだけあって、二人のことばの協奏を企図したものといえる。
 ただし、実際に読んでみると、二重奏というよりは「競奏」。つまり、どちらのことばが響いていくるのか。
 本の編集自体は、谷川の詩が先立ってあって、その詩にまつわるテーマを長谷川が散文で書くというものだけれども、その「余韻」においては、谷川の詩か、それとも、長谷川の散文かという意味では、「言葉の二重奏」というような印象はなかった。
 というわけで、どちらが、自分にとって、「余韻」を残したか。というと、長谷川の散文である。これは、あくまでも自分の感想なんだが、どうも谷川の詩は、余りにもナイーブな気がして、どうしても自分の感覚になじまない。
 その点、長谷川の散文は、読んだ後の「余韻」がある。読んでいて、ことばが響いてくる。自分の感覚になじむ。それは、森有正のエッセイを読んでいるときの感覚に似ているかもしれない。
 そんなわけで、以下では、気に入った散文「一日のはじまり」をメモ。

 一日のはじまり


 すがすがしい朝。
 いいことばだ。すがすがしい朝を迎えたいと思う。すがすがしい朝を迎えられたら、その日一日のしあわせがもう約束されたように思う。
 (中略)
 眠りからさめて一日がはじまる。思えば、ふしぎなことだ。なぜ眠るのだろう。眠らねばならないだろう。
 新しい一日がはじまるには、前の日がおわらねばならない。前の日のおわりにくるのが眠りであり、眠りによって前の日がおわるのだ。眠らずにいたら前の日がおわらず、新しい一日がはじまらない。
 文明病の一つに不眠症というのがあって、早く平安時代の絵巻「病草紙」に、真夜中ふとんの上に起き上がって打つ鐘の音を数える不眠症の女が描かれるが、不眠のつらさは、疲労のぬける身体的苦痛に加えて、一日のはじまりをもつことのできぬ精神的苦痛にあるのではなかろうか。人生にはじまりとおわりがあるように、一日にもはじまりとおわりがなければならないのだ。
 なにかがはじまるとき、はじまりはつねに新しい。はじまるなにかは、つねに新しくはじまるので、さあはじまるぞ、というとき、その新鮮さにわたしたちはぞくぞくする。朝には、どんな朝にもそうした新鮮さが備わっていて、朝がくるたびにその新鮮さを感受できる人が、ことばの本当の意味で健康な人だ。その意味で、健康がしあわせのもとだというのは当たっている。不健康がかならずしも不しあわせを意味するわけではないのだけれども。
 さて、一日のはじまりだ。なにも書かれていない真白な紙にむかうような気分で、一日を迎えたい。それが朝の気分というものだ。
 そんなことをいったって、少し冷静にきょう一日のことを考えると、やらねばならぬ仕事、会わねばならぬ人、行かねばならぬ人、行かねばならぬ場所がすぐにも頭に浮かんで、真白な紙には、すぐにしていくつもの予定が書きこまれている。それがわたしたちの暮らしというものだ。きのうと変わらぬきょうがあり、きょうと変わらぬあすがある。真白な紙には、何日も前から、いや、何か月も、何年も前から、たくさんの直線や曲線が引かれているかもしれない。
 それはそうだ。
 が、だからこそ、わたしたちには眠りが必要であり、すがすがしい朝が必要なのだ。
 きのうときょうのあいだに切れ目を設け、きのうとはちがう世界、きのうとはちがう自分に出会いたいのだ。本当にちがう世界に出会えるのか。ちがう自分に出会えるのか。それはわからない。わからなくても、朝、眠りからさめて、新鮮な空気が流れ、新しい一日を思う。それが生きるということだ。

 ふむ。最近、一日という時間の単位について、ふと思っていたことをすごく言い当てられた気がする。
 なんとなく日々をすごし、「きょうもあれをやらなきゃな」という、気持ちがどんどん縮こまっていく日々。けれども、確かに、とめどない流れのなかで、時間、そして、一日という切れ目をいれることによって、新鮮さを保てるかもしれない。
 今日は、あれを学んだ。あれをおわした、というように。もちろん、そういった「あれ」も、実は自分を縛り付けていることに変わりはないのかもしれないけれど。
 ただ、少なくとも、時間をつくりだすという人間の試みは、流れに切れ目をいれることで、生きるということを新鮮に保とうとした意志の現われなのかもしれないと思った。