【ノート】おわったとかってあるのだろうか。

 最近読んだ本で、印象に残ったのが、苅部直丸山眞男』。そして、一番、印象深かったというか、すごく納得した一節が、あとがきに書いてあった次の一節だ。

 いったいいつから、批判するとかのりこえるとか、精神を継承するとかしないとか、剣呑な言葉でしか、過去の思想は語られなくなってしまったのだろう。どんな人であっても、ひとりの人間が深くものを考え、語った営みは、そんなに簡単にまつりあげられたり、限界を論じたりできるほど、安っぽいものではないはずなのに。*1

 誰々の思想・哲学はもう「おわった」とか、「やばい」とか時代遅れと一蹴するのではなく、読もう、読もうとすること。

 古典を読み、古典から学ぶことの意味は―すくなくとも意味の一つは、自分自身を現代から隔離することにあります。「隔離」というのはそれ自体が積極的な努力であって、「逃避」ではありません。むしろ、逆なのです。私たちの住んでいる現代の雰囲気から意識的に自分を隔離することによって、まさにその現代の全体像を「距離を置いて」観察する目を養うことができます。

 まさしく「他者」としての古典テクストにむきあい、それを「他在において理解する」営みは、読者の精神がこの現代を離れ、別の空間へしばらく旅をするような効果をもつ。テクストを読みおえ、もう一度、現代に戻ってみわたすと、周囲の世界はまったく異なる「全体像」を見せてくれるだろう。伝統の再解釈は、「現代」という時代を改めてとらえなおす営みとも重なる。*2

*1:p.225

*2:p.200-201.