【ノート】鶴見俊輔による、自身の哲学解説

 最近、自分が読んだ本の作者は、みんな鶴見俊輔に対して、畏敬の念を抱いていたり、影響下にあったりと、何らかのつながりをもっている。そんなわけで、鶴見俊輔を、近頃は興味を持って読んでいる。
 鶴見俊輔は、一応哲学者ということであり、その立場はプラグマティズムというらしい。正直、プラグマティズムなるものは、学生である自分だが、とんと縁がないというか、よくわからない。そこで、その鶴見俊輔の哲学的な立場であるというプラグマティズム、あるいは本人曰く「生活語による普通人の哲学」について、本人による解説をしてもらおうかなというメモ。

 プラグマティズムの考え方の中心は何かというと「あたたはそう言うけど、どうやってそれを測るの」ということに尽きる。つまり、何を目安にしてものを考えるのか。その時に、彼らが目安にしたのは、自分の身体や身近な生活です。あなたのテープレコーダーはどのくらいの大きさ?まあ私の拳骨一つよりちょっと大きいかな、これですよ。直接に肉体的な行動を思い起こすでしょ。そうした物差しで考えなさい、そうすれば自分の考えをはっきりさせることができるとした。そういう哲学がアメリカにはフランクリン以来流れ、今の私の中にも入っている。*1

 「目安を立てる」ということがある。今生きている状況の中で、このへんを標準にして考えてみましょうという目安。それがプラグマティズムだと私は思っている。そこには、状況の中での個人の決断があり、ある種の倫理、価値判断が前提としてある。*2

 デューイは、アメリカ独立宣言をとてもいいものだと考えるが、起草したジェファソンのように、人間は平等に生まれるということを自然の事実として考えない。「人間は事実として平等ではない。しかし道徳的に平等である」という風に独立宣言を解していく。明らかに事実としては平等ではない。しかし道徳的に同じ権利を持つと考えるところに問題が生じる。そういう風に考えれば、ジェファソンの独立宣言は今もわれわれの指標になるという考え方なんです。そういう普通人の考え方から哲学を組み立てた。
 それは昨年亡くなった武谷三男(理論物理学者。1911−2000)の考え方に似ているんです。彼は敗戦後に「思想の科学」創刊に携わり、最後に『危ない科学技術』という本を出した。彼によれば、先端技術は、水質を守るために木を植えるということなんです。水が危なくなったら大変だ、だから木を切ったら木を植える、それが先端技術じゃないか、という風に考えていく。つまり普通人の立場から科学技術をコントロールしていくということですね。*3

 人は人を殺すべきではないとか、そういうところから考えるよりも、自分の実感で考える。それが生活語から考えていくことの意味です。*4

 今自分のいるこの場所からしか自分の行き先は見えないが、これまでの道もこれからの道も他のだれかの道と交差している。他の人がそれぞれの場所から見ることで、その見方が自分の見通しの中に入ってくる。それによって自分の見方に頑なにこだわらないことを教えられ、自分の間違いを正す機会が与えられる。こうして間違いは自分の未来を指さす。私にとっての真理は、手に握って他人に渡すものではなく、間違いの教える方向の感覚にある。*5

*1:鶴見俊輔『読んだ本はどこへいったか』p28-29

*2:同書p31

*3:同書p58

*4:同書p105-106

*5:同書p134