【ノート】ありあわせのことばによる思想を。

 前にもふれたが、近頃鶴見俊輔を読むようになった。読んでいて、ぐっとくる。ありあわせのことばによる思想。彼の本を読んでいて、そんなことばが、ぱっと頭に浮かんだ。
 思想というと、どうも自分は体が堅くなって、萎縮してしまう。だが、彼の著作を読むと、思想ってやわらかくていいんだと思わせてくれる。大文字の哲学用語や観念・概念を駆使することに憧れながらも、なかなかそれが体になじまない自分にとって、鶴見俊輔という哲学者の存在は、信念をもたないことが信念である自分の気持ちをほっとさせてくれる。
 決して、背伸びをすることなく、大上段に構えることなく、ふっと肩の力を抜いた、やわらかな自然体の思想をしてみたいものだ。

 個人がなし得ることは小さい。世界全部を変革することを個人は要求されているのではない。世界全部を変革するのでなければ思想でないという考え方は、有効性をテコにとって簡単に自分が転向してしまうか、あるいは非常に残虐な思想に向かわせます。*1

 一人の大衆としてそのことを我々は思想的に成し得る。塊としての大衆はあるが、完全に固まって蟻の抜け出るすき間もないというふうではない。塊としての大衆には必ずひび割れがある。そこから一人の大衆として抜け出ることができる。一人の大衆というのは矛盾した概念だが、大衆の一人といったら具合が悪い。むしろ、矛盾を避けるためにいえば、一人の普通人といっていいかもしれない。
 大衆は本来たる詰の思想として定義することもできます。そういうふうに使う人もいます。しかし、私は、そういうふうには使わない、一人の大衆という考え方を持っているから。塊の大衆とバラバラの大衆と二つの矛盾概念があると私は考えます。*2

 家の中で、どういうふうに付き合いがあるか、家の近くでどういう遊びを持つか。それが根本的な記号をつくる。それを自分の中で掘り起こして、それが抽象語の受け皿になっていく。抽象語が全然意味がないというのではない。受け皿が必要なのです。*3

 「一人の人間が真剣に生きた生涯を焼き捨てる権利など誰にもないし、それに過去をきっぱりと忘れるなんて、そんな器用な真似が人間に出来るわけがない」*4

 私の言いたいことは、トーマス・マンとの会見をことわられたフルトヴェングラーの怒りの言葉に見られるような、亡命者を民族を捨てたものとして非難するという流儀をさけたほうがいいという一点にかかっている。亡命は、国家批判ならびに政府批判の方法として、人間に許された一つの方法であり、もとよりその方法だけで十分というわけではない。国内のみにとどまって、国家批判をつづけるもっと勇敢な抵抗の道があり得る。しかしそのような勇敢じゃ抵抗を試みるものを讃美することをとおして、亡命者をおとしめようとするのは見当はずれであり、そのような方法によって、(おそらくは批判者自身の)政府への無批判・無抵抗をもかくしてとおしてしまう結果になろう。*5

 亡命しなければ国家権力に抵抗できないと言うつもりはない。ただ、殉教のみを理想化せず、亡命者を考慮のうちにおいて国家批判を考えてゆくという見方を保ちたい。*6

 都会に出て、学生下宿に入ると、疎外とか、止揚とか、いろんな言葉を聞く、それを自分が知らないのは、なんとなくはずかしいでしょう。あるときに、自分も「それは疎外じゃないか」と言うと、知らないで使っていても、相手が受け入れてくれるんで、急に元気が出てくるんですよ。学生の気分というのは、それでアルコールなしでもどんどんどんどん元気が出てくるわけ。「それが疎外なんだ。疎外がまだわからなんのか」というと、お互いに元気が出てくる。*7

 正しい原則があったって、それは第一原則にすぎないのであって、いまの状況がなにかということをつかむのは、全く違う判断なんですね、経験上。カントならカント、またナチスに協力しなかったという意味では、ヤスパースならヤスパース、こういう人は、それぞれその時代の圧力の中で自分の発言をしたんです。その時代に対して抵抗して羽ばたいた、そして自分の著作を書いているわけで、だから、カント自身ヤスパース自身は棒くいにしがみついたのではない。生きている同時代の圧力が彼らの力になっているんですね。そこを見ないといけないんですが、学校流の考え方ですと、やっぱりカントならカントを学習して、そこから演繹する、それはそのほうが試験しやすいですからね。*8

 正しい思想というものを区分して、これが正しいと固定して、それを受け継ごうという流儀は、それではそのときどきの状況から切り離されたお題目とか原則だけを、常にわれわれの暮しの中におくということになります。私は、それはそれで意味があると思うんです。お題目を繰り返し五〇年、六〇年にわたって唱えるということに意味があると思います。「平和」「反戦」ということを、六〇年、七〇年繰り返し言うことのできる人は、状況と弾力的に取り組むことができなくとも、偉いと思う。ですが、状況の中で、なにか仕事をするということには、それでは足りない。それでは普通には、死んだ思想だけを讃美するということになります。それを正しい学習によって継ぐ、これは大学とか論壇のやり方なんですけれども[…]。
 (中略)
 そういう偉大な先人の過失から学ぶということが、われわれのプログラムであるべきでしょう。しかし、偉大な先人に続けというような仕方で、それをぼやかしてしまう。それがコンピューター的な論議でね。これでは大学はうかるんですけれども、そして卒業もできるんですけれども、社会に出てからはつづかない。繰り返し繰り返し妙な道に曲がっていってしまうんじゃないでしょうか。*9

 他人をなぐったり、他人を自分の権勢にしたがわせる力をもたなくなったことを自覚する時に、自分の前にひらけてくる、自由の世界である。生命力がおちてきて、生命のない存在と自分をほとんど一列に見ることのできるようになるところにひらける眺めだろう。*10

 理路整然と、きちんとした意見はちょうど熱い風呂のようなものである。はいってから動くと皮膚がちりちりするから、じっとしていなければならない。したがって少しぬるくして誰にもはいれて動きやすくする役目の人がいたほうが、組織として生き生きしてくるのではないかと思われた。いいかげんさ自身はマイナスだが、きちんとした厳格さと結合するとプラスの役目をすることにもなるのだった。いってみれば機械油のようなもので、人と人とのあいだのきしみを無くし組織を円滑することもあるのだった。*11

 国家権力をたまたま手中にしたものが、自分たちが完全に公を代表しているようなことを言い、権力をもたぬ人民大衆にも、完全に公の立場にたつようにとしいる。その流儀がくりかえされるかぎり、「社会主義」国家は、社会主義をカッコにいれた国家でありつづけるだろう。*12

 今ある教科書は、戦前に私などの使った教科書よりも、系統だっていて、よいと思う。しかし、系統だっているだけに、その台本からそれて何を教えるとか、生徒のもっている問題を考えるというふうにゆきにくいらしい。*13

 私小説などというものは、思想とはかかわりがないとみなされているが、私にはそうと思われない、人が自分の底にむかってくりかえしおもりをおろして、自分の内部をはかり、動かしにくいものを見さだめる。こうして見さだめられた、反復する感情の型は、一つの抽象であり、思想である。*14

 自分が生きてゆくにつれて視野がひらける。そういう遠近法を捨てることはできない。しかし、そういうふうにしてひらけてくる景色には、自分にとって見えない部分がふくまれる。この自分にとって見えない部分を見るというのは、できないことだが、見えないものの気配を感じることはできる。そういうふうでありたい。
 自分の思想は自分にとっての落とし穴だろうが、そこからはいでる道は、自分の思想の落とし穴への気配を感じようとすることから、ひらける。すくなくとも、見えやすくなる。*15

*1:鶴見俊輔(1989)『思想の落とし穴』岩波書店p13-14

*2:同書p15

*3:同書p30

*4:同書p50

*5:同書p72−73

*6:同書p87

*7:同書p94

*8:同書p99

*9:同書p108―109

*10:同書p177

*11:同書p185

*12:同書p250

*13:同書p261

*14:同書p323

*15:同書あとがき