教師の定義

 久々に、今週、学生時代の同窓会がある。自分が、ひとつの原点にしている場だ。同窓会ではなく、そのゼミが、だ。ある意味、モラトリアムが伸びたのは、そのゼミに入ったからこそだといえる。決して、それは悪い意味ではなく、良い意味でだ。
 自分は、ちょうど大学の転換期の中を過ごした。つまり、モラトリアムな場から将来に向けて大学がソフトをしっかりと提供する場へと変容しはじめた、その真っ只中にいた、と思う。
 とはいえ、別にソフトが云々という話ではなく、大学で大切なのは、きっと「師」と「ライバル」に出会うことだと思う。
 師と言うのは、あこがれの存在、そして、ライバルとは、こりゃ勝てないなと思わせてくれる人間である。幸運なことに、自分は、その師のゼミに入ったことで、師とライバルと出会った。
 師とは、出会ったというよりも、会いに出たといった方がよいだろう。というのも、自分が大学に入って、「学問」というものへのあこがれはあったものの、いったい何を、どう学んでいけばよいのか、自分の問題関心である対象に対してのアプローチと研究領域について模索していた時期があった。
 そのとき、2年生対象のゼミ紹介に潜ったのだ。そして、師の話を聞いて、これだと思った。というより、自分がこういう研究領域がよいなと思い始めていた、そのパイオニアとして、師がいたのだ。そして、2年生のときから、参加し、研究をスタートさせた。
 いま、自分が大学を卒業し、社会人になっても、あの「場」で学んだこと、そして、それ以上にあの「空気」を味わえたことを感謝している。馴れ合いではない、真剣勝負。自分が、あの場に出会わなかったら、いまの自分はないだろうと思う。
 そんなことを思うと、教師というのは、難しい仕事だと思う。それは、ラジニーシの説くところが明快につたえてくれる。

教師の本来的な定義は「自然に敬われる人」であって
その人をうやまわなければならないということではありません

(中略)

教師というのは詩人と同じくらい生まれながらのものだ
それは偉大なアートだ
誰もが教師になれるわけじゃない
けれども普通教育という制度のために
何百万という教師が必要になる

(中略)

人々は教師をみつけるために
その人と一緒にいるために、何千里も旅をしたものだ
そこにははかり知れない敬意があった
ただし、その敬意は教師の質にかかっていたものだ
それは弟子から
あるいは学生や生徒から期待されたものじゃなかった
それはただただ起こったのだ。
*1

 ここでいう、教師の定義はとても腑に落ちる。なぜなら、自分が尊敬できる教師は唯一、ひとり。そして、その師は自分から会いに出た師だ。だからこそ、緊張する。畏れる。自分の未熟さを見抜かれているようで、とても緊張する。しかし、会うたびに、しっかりと自分がやっていることを話さなければと気張ってしまう、師を持つことは幸福なのだと思う。
 だからこそ、現代の教師の不幸を思うのだ。残念ながら、自分は大学に入るまで、教師を尊敬したことがない。特に、義務教育段階で、教わった教師については、はっきりいって軽蔑の念とはいわないまでも、どうも好きになれなかった。だから、小中の先生みたくなりたくてといって、教師を目指した人間をある種、ホントかよと斜めに見てしまう自分がいる。
 とはいえ、教師が「自然に敬われる人」であるならば、自分の感覚は絶対とはいえない。なぜなら、個人個人に、敬いのポイントはちがうからだ。
 現代の教師は、自然にではなく、制度的な敬いを前提にする。だからこそ、不具合が生じる。教師というよりも、教員(教育公務員)と呼ぶ方が適当であると思う。
 問題が混乱してきたので、この問題については、もう少し考えてみようと思う。

*1:OSHO『究極の旅』(1978)p.94−p.95