「触発」としての教師

 教師と教員の違いを明確に線引きするようになったのは、和尚の本を今夏に読んでからである。具体的には、教師は自ら出会いに行くことによって「先生―生徒」の関係が成立するのに対しては、教員とはこちらから求めに関係なく、制度的に「先生-生徒」の関係が成立していることである。つまり、後者が、学校というひとつの制度によって生み出された関係であるのに対し、前者は自らが欲して関係が築かれているということである。
 では、そこで欲される教師とはいかなる存在なのか。それが、重要な問題である。換言すれば、教師が教師たる所以はどこにあるのか、その存立条件は何なのだろうか。
 ここからは、私見ではあるが、それは「触発」なのではないかと思う。
 というのも、今日、ある先生の講座に出たとき、実感したからだ。自分が師だと思う先生は、必ずといっていいほど、ある興奮を、おもしろさをもたらしてくれる。それは、「考えることの楽しさ」であり、思考を活性化する導火線になってくれるのだ。その先生の話を聞くことで、ぐるぐると思考がめぐっていく、とめどなく考えが湧いてきて、それを「うんうん」うなりながら、考える。必ずといっていいほど、その種の経験をさせてくれる人、それが自分にとっての師であり、先生の条件なのである。
 すなわち、その人に「触発」され、思考することのおもしろさを教えてくれる人、それが自分にとっての「教師」なのである。
 そういえば、前に大澤−宮台対談でも、「模倣」あるいは「触発」の重要さを説いていたと思う。
 それは、さておき。そうした触発は、やはり、読書よりも、その人と直接会うことによることのほうが大きいと思う。それが、講義の魅力であり、ネット講座では得られないものなのではと思う。師弟関係という、徒弟制の教育的意義とはそうした直接出会うことによる触発にあるのではないかと思うのだ。
 今日、ひさしぶりにそうした経験をしたので、改めて思った。それは、自分にとって理想の教師とは、「触発」としての教師であり、「思考の導火線」としての教師であり、自らの学びに火をつけてくれる「発火点」としての教師なのだということを。
 つまり、考えること、学ぶことのおもしろさを身をもって、「実技」として、「感触」として、教えてくれる師こそが、自分にとっての教師なのである。

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日本人へ 国家と歴史篇 (文春新書)

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フューチャリスト宣言 (ちくま新書)

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