ものすごいはじまり。

 ひさしぶりに、『地下室の手記』を読みかえしている。最近のドストエフスキーブームに乗っかってというわけではないけど、ただなんとなく読み返したくなったので、もう一度読んでいる。
 改めて、読んでみると、これがおもしろい。はじまりが、いきなり「ぼくは病んだ人間だ・・・」って、すごい。頭をパンクということばがかけめぐる。
 『罪と罰』を読んだときに、感じた、なんだこのひとりごとの多さ、それがひたすらこの作品では続いている。しかも、延々とつづくそのモノローグが重いこと、重いこと。
 『地下室の手記』のあとは、『若きウェルテルの悩み』を読み返そうかなと思う。
 
 ふとおもったんだけど、なんでこの一人称は「ぼく」なんだろう。その内容からすると、「おれ」という一人称がすっとくるが、でも違う気もする。ただ、「ぼく」ということばはやわらかく、「手記」という気もしない。しかも、「ぼくは病んだ人間・・・」というように(もしかして、島田雅彦の「ぼくは模造人間」ってこっからきてるのかな??たしか、島田雅彦は、東京外大のロシア語じゃなかったけ、たしか??)、あくまでも「呼びかけ」ている印象がある。
 むしろ、「自分は病んだ人間だ・・・」の方がすっとくる。でも、自分は原文を読んでいないし、ロシア語なんてできませんので、役についてはいえないだけど、ただ、読みながら、「ぼく」よりは、「自分」のほうが文章の「感じ」に合う気がした。