おわりとはじまり

 今月、長かった学生生活が終わった。同級生は、当然卒業してしまっており、知り合いはほとんどいないまま、淡々と卒業式を迎えた。感慨を覚えるかとおもっていたが、案外、さっぱりとした気持ちだった。それは、いろいろとやり残したかな、あれもやればよかった、という後悔以上に、そろそろと社会に出ないとという気持ちの方が強かったからかもしれない。

 とりあえず、最後に、「カラマーゾフの兄弟」と「モオツァルト」、そして黒澤映画に登りきることができたのは、よかった。今は、単にそれを「見た」り、「読んだ」りだけだろうが、それが種となり、これから1ミリでもよいから、伸びてゆくことを願うばかりである。もちろん、「純粋理性批判」と「資本論」は途中であったのは、残念だが、登りかけたことはよかったとしよう。


 いずれにせよ、来月から、というより、来週から、新社会人となる。いったい、自分は何ものになり、生きてゆくのだろうか。楽しみでもあり、不安でもある。おわりがあれば、はじまりがある。今は、おわりとはじまりのあわいゆえに、気持ちも宙吊りになっている。しかし、はじまれば、もう動き出すしかない。やわらかく、しなやかに、そして、呼吸を整えながら、ときにはあらく。

 さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう。

 と寺山修司のことばをおもいだす。日々は更新し、新たになり、自らも新たになる。移ろいゆく流れのなかで、いかなる未知と会いに出、出会い、変節してゆくのだろうか。希望、自信、不安、緊張、速度。そのなかで、何ものかになることを願うばかりである。