【ノート】『哲学のエッセンス ドゥルーズ 解けない問いを生きる』(檜垣立哉,2002)

 フッサールは、<生ける現在>の探求を中心に据えていく。〔…〕ところが、ドゥルーズは、意識が世界に接する定点を探ったり、主体が世界に根づくあり方を掘り下げたりするような考察をすべて退ける。いいかえれば、現在にリアルさの根拠(<生ける現在性>)を見いだしたり、現在が含む拡がり(私が住まう大地、私が有機体に結びつく身体―環境的連関)を主題化することはがまったくないのである。*1

 つまり、流れの中に内在しながら自己の動きを決定していくこととは、無限に拡がる世界の姿を俯瞰しながら、一種の跳躍のような賭けをなしていくことである。自己の視点という定点を消し去って流れに内在することそのものが、ただちに無限の俯瞰をなすのである。*2

 私は先に、情報と生命とを、いまを考えるための二つの大きなテーマであると述べておいた。デリダの発想に深くかかわるのは、いうまでもなく情報である。主体という中心が解体され、どこから現れどこにいたるのかも追跡できない仕方で錯綜し、見えない彼方からの(他者からの)呼びかけに応じつづけること(郵便的であれ、電話であれ、メールであれ、コンピュータであれ)。こうした情報にまつわる現在的なイメージは、デリダの議論の論脈にきわめて接近している。(そこにはまた、宗教性のイメージも色濃く感じられる)。
 その対比からみても、ドゥルーズは完全に生命系である。あくまでも、唯物的で、(不在の)彼方の真理をも想定せず、無限の流れに内在しながら多様な接合をとげつつける生命のあり方が、そこでのモデルをなしている。ドゥルーズは、この世界の解けなさを、未決定なポテンシャリティー(潜在力)であると捉えるが、それは、いつも新たなものの産出をあらわにするためである。それは、デリダ的な意味での不在も外部もいっさい認めないかたちで、生成の流れの無限性を、ひたすらポジティブな力として描き続ける試みなのである*3

*1:p44

*2:p47

*3:p52-53