「忙しい」という非倫理

 自分の口癖として挙げられるのは「忙しい」である。多忙感という心情的なくせもある。なんとなく、口走ってしまう、「忙しい」。
 そして、その思わず自分が発してしまう「忙しい」ということばには、倫理的な問題が潜んでいるらしい。

 目のまえの他者にたいして多忙を理由にして応答を拒絶することは、その他者を蔑ろにすることである。現前する他者に「忙しい」と口にすることは、じぶんが設定した秩序のうちで、他者を一方的に位置づけることにほかならない。それはひどく暴力的で、非倫理的なふるまいではないだろうか。*1

 すなわち、「忙しい」とは、自分の都合に基づいて、他者への応答を拒否する発話行為であるという。いわば、「多忙」ということばを発することによる、応答すること、近頃のことばでいうならば、応答responseという責任responsibilityの欠如であると。
 たしかに、何かを求める人に対して、「忙しい」と一蹴してしまうことは、非倫理的なことなのかもしれない。けれども、その一方で、応答responseするということは、結構力が要る。そして、自分に余裕がなかったりすると、どうしても、応答すらもきつくなってくる。
 もちろん、応答しようとする構えも大切だし、相手を拒絶して、応答しないことがいかに倫理的でないかというのも感覚として、なんとなくわかる。でも、応答しつづけるということも、結構大変だし、結構自分の身を削ることもある。
 それでも、応答しつづけなさいと言われるのは、ちょっと「酷だな」とおもってしまう。だって、応答するにも、自分にも余裕がないとつづけられないから。そして、それを声高に言われても、たしかに正論だから、言い返すことはできないし、口ごもってしまう。
 とすると、責任としての応答って、強さをもってないとつらいんじゃないかなとおもう。弱さへの配慮のための強さ。それがないと、なかなか応答できないよ。それが、実感。ただ、これはあくまでも実感だから、応答という責任resposibilityについては、ちゃんと考えなきゃいけない気がする。
 でも、なかなか日々のやるべきことがあって、なかなか取り組めない。自分の声に対する応答の責任のなさも、また「忙しい」という実感によって、生まれてきてしまう。

*1:熊野純彦『戦後思想の一断面 哲学者廣松渉の軌跡』あとがき