近ごろ、からだについて考える。
きっと以前ならば身体(しんたい)という言い方をしていただろうけれども、今は「からだ」といった方がしっくりくる。
それは、いわゆる身体に対するしなやかさ、やわらかさへの志向だろうと思う。
今年に入って、あるボディワークに関するワークショップに、月に1、2回通うようになった。理由は、何か自分のからだが不具合を起こして、精神的にも身体的にも慢性的な疲労に陥ってしまい、硬さが感じられるようになったからだ。解放への志向である。
実際、からだを動かすと余りの硬さにおどろく。他の人と比べても、明らかに硬い。きっと、この硬さは自分の他者や仕事への態度に少なからず影響を及ぼしているのかもしれない。
また、身体というものを考える。それは、自由に、たしかに自分の意思に基づいて動くという意味では、自由である。が、イメージどおりかといえば、そうではない。自由に動かせない。つまり、自由で不自由なリアリティある存在としての身体。
あるいは、あるうまいからだの動かし方をする人がいる。しかし、見本として見られると、その巧みな動きにズレがでる。つまり、見られることによる身体の不自由さ。
学生の時には、リアルにうまく実感として考えられなかった「身体(からだ)」に、ちょっとずつ興味をもつとともに、考えることがふえた。