仁義なき戦いと坂口安吾

 というタイトルを読むと、いったいなんのことだろうと思うだろう。が、自分にとっては、映画「仁義の戦い」と坂口安吾はセットなのだ。
 どういう意味でセットなのか、そのことが問題だ。では、いかなる意味でセットなのか、それは、坂口安吾の「日本文化私観」の以下の文章を読むと、仁義なき戦いの冒頭のバラックのシーンが浮かばずにはいられないからだ。

 見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、ほんとうの物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、あってもなくても構わない代物である。法隆寺平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して駐車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り月夜の景観に代わって、ネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、何であろうか。見たまえ、空には飛行機がとび海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駆けて行く。我々の生活が健康であるかぎり、西洋風の安直なバラックを模倣して得得としても、我々の文化は健康だ。我々の文化も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活するかぎり、猿真似を羞じることはないのである。それが真実の生活であるかぎり、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

 なんか、パンクな感じがする。パンクという定義は何ぞや、という問題もあるが、ただパンクな感じなのだ。生活と美。それにしても、真に生活することの美とは一体なんであろうか。
 ただ、この文章を読むと、夕陽に照らされた、バラック小屋で、埃まみれになっているあくせくして、あるいは、抜け目なくいきていくひとびと、まさに、それは仁義なき戦いの冒頭のシーンのような情景、それを美的と感じてしまうのである。