逆境ってなんだろうか。

 どうして今なんだ、とおもうことがいきなり起きた。なんとなく予感めいたものは、うっすらとあったのかもしれない。さらにいえば、それを自分自身どこか望んでいたのかもしれない。

 が、しかしである。やはり、いざそうなってみると、気持ちは乱気流である。どうして、この時期なんだろう、か。

 やはり、「畢竟、逆境もまた愛すべし」なのだろうか。

 ともおもってみたが、なんとなくちがう気がするのだ。そして、安吾の『風と光と二十の私と』の一節を思い出した。

 〔…〕彼等はいつも私にこう話しかける。君、不幸にならなければならないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから、と。
 だが私は何事によって苦しむべきか知らなかった。私には肉体の慾望も少なかった。苦しむとは、いったい、何が苦しむのだろうか。私は不幸を空想した。貧乏、病気、失恋、野心の挫折、老衰、不和、反目、絶望。私は充ち足りているのだ。不幸を手探りしても、その影すらも捉えることはできない。叱責を怖れる悪童の心のせつなさも、わたしにとってはなつかしい現実であった。不幸とは何物であろうか。

 きっと、今の自分は、「逆境」ということばを単に今という状況にあてはめている、というより、ただあてはめたいだけなのかもしれない。つまり、今という、逆境という、この不幸を、ただ感傷的に、「これは自らの成長の種」だと、ただただ、味わいたいだけなのかもしれない。むしろ、傷はおもったよりも浅いのは、自分でも気づいているのかもしれないし、気づいているふりをしているのかもしれない。きっと、そうやって、いろんな『時』を記念として刻もうとするのが、自分の性質なのだ。

 それにしてもおもう、逆境とは何であろうか。その問いの答えは、きっとないだろうね。