思考力を鍛えること

 自分が所属しているゼミは、自分が興味を持っている話題について調べてきたことを発表するというよりは、理論系の文献を、ひたすら輪読していくゼミである。厳しいという評判だが、なぜか人は集まってくる、しかもキャラの濃い人々、という不思議なゼミではある。

 しかも、輪読といっても、ひたすら筆者が何を言っているのかを理解するという、批判的にというよりは、まず何をいわんとして、その問題関心はどういうものかを解読していくという作業を徹底する。そんなこんなで一年で、日本語の文献5冊と英語の論文ひとつを読破した。そんでもって今年は、去年に引き続いて、英語の文献一冊を、ほんと構文読解するがとのごとく、ちまちまとやっている。

 要するに、大学入試で、英文の構文をきっちりとって読んでいくかのごとく、日本語で書かれたものでさえも、きっちり丁寧に読んでいく。

 正直、他のゼミみたいに、わいわいがやがやそれぞれの各自の持ってきた発表を聞いて、アクチュアルな議論するのがうらやましいなぁと思うこともあった。だって、入試の現代文の読解みたいなんだもんね、うちのゼミ。

 でも、ようやくそういったちまちま読んでいくことの効用が、じわじわとでてきた気がする。結構、他の人が難しくて全然わけがわからないといった文章でも、ある程度、「こんなことをいってるんじゃないかな」と見当をつけて読めるようになってきたということ。

 そして、何よりも、文章を書くときに、それまでのように、一気に勢いで書かずになってかわりに、一段落書くのにもちまちまと考えるようになって、書くスピードと量は激減だが、なんか他の授業とかで書いていったレポートの文章がうまいと言われるようになった。

 そんなわけで、なんでうちの先生は、そんな、ちまちまとしたテキスト読解をやってきたのかなぁと思ったとき、哲学者の木田元氏の回想記を読んで、「なるほどな、こういうことだったのね」と理解した。

 ものを考えるには一定の訓練が必要です。目をつぶっていればなにか考えが浮かんでくるというものではありません。フッサールウィットゲンシュタインのような特別の天才を別にすれば、普通の人間は、ちゃんと考えて書かれたテキストを一行一行読みながら、著者の思考を追体験することによってしか、思考力の養成はできそうにありません。ぼくにはそう思えました。いまもそう思っています。それにはまずテキストを正確に読む訓練をしなければなりません。
 (中略)
 〔…〕本がきちんと読めるようになると、たいていは論文もよくなります。ちゃんと筋の通った論文を書けるようになりますから、テキストを読みながら、著者の思考を追思考し、思考の訓練をしているのだというぼくの仮説は当たっていると思います。

 自分のゼミは、別に哲学を専攻しているわけじゃないので、そこまで徹底はしていないのかもしれないけど、先生の指導方針としては、まさにこんな感じだ。そんなこんなで、うちのゼミは院に行こうとするのも多いわけである。厳しいけど、ちゃんと学費分、口には出さないけど、その態度で学生を鍛えようとしている、というか鍛えてもらえているんだなと実感。

 でも、正直、なんともいえない緊張感漂う3時間が始まるかと思うと、ゼミの前、けっこう陰鬱な気分になることも無きにしも非ず。