【ノート】野田秀樹による演劇観など

 野田秀樹は、積極的に「演劇とは」という「演劇観」を語らない演劇人という印象がある。むしろ、躍動的な演劇を、そうして「演劇」を固定的なひとつの観念として捉えてしまうことに対して、意識的に避けている気がする。けれども、本書では、野田秀樹の「演劇観」が垣間見える。特に、彼にとっての演劇が、「詩と身体の交差点」という言明は、腑に落ちるものだし、自分が彼の舞台に魅かれる根拠もそこにあるのだと思った。

 一九九二年、十七年間続けた劇団を解散し、九三年に英国へ文化庁在外研修生として、一年間留学した。
 今思えば、そこで何を始めるか、明確な像があったわけではない。だが、自分の芝居のテイストに近いものを追い続けると、そこでまず出会ったのは、「仲間」であった。
 私の考える演劇観「肉体と詩の交点に芝居は生まれる」と同じ演劇観を持った、ヨーロッパの芝居仲間である。*1

 日本語=自分が生まれ育った国のコトバは、いわば家族のようなもので、日頃考えないでよい存在となり馴れ合いが起こりやすい。
 日本語を使って演出しているときには、曖昧なところをそのまま素通りしていることがある。と、改めて思った。
 たとえば、英国の役者の前では、私は「自分の演出は、リアリズムではない。誇張と省略こそが、演劇空間を作るための二つの大きな要素だと思っている」と宣言した。*2

 ヨーロッパの演出家の方が、自由にやらせるタイプが多いと思っていたが、演出家が、自分を独裁者と勘違いしてしまうのは、日本と同じだと確信する。
 器が人を作るのではなく、器が人を誤解されるのである。*3

野田 タイでの公演は特にそうじゃないですか?お客さんも、日本の昔の芝居小屋にいたようなお客さんで、こんなふうに芝居を観なくちゃいけないという感じでなく、楽に観てるんですよね。日本の芝居は構えて観る人の方が多いかなあ。*4

*1:野田秀樹・鴻英良『赤鬼の挑戦』p20-21

*2:同書p24

*3:同書p63

*4:同書p75