【ノート】ことばというおしゃれもあるもんだ。

 自分はおしゃれではないし、服に関しては無頓着な部類に入ると思う。できるだけ、スタンダード、はずれのないファッションを心がけている。愛用するのは、ユニクロと無印である。
 そんな自分ではあるが、最近できるだけ心がけようと思っているのは、ことば。これについては敏感でいようと思っている。たぶんこうして、はてなを書いているのも、そういった動機から来ているのだと思う。
 そこで、なるほど、おしゃれにもいろいろとあるのだなと思わせてくれるきっかけとなった文章のメモ。

 自分に似合う、自分を引き立てるセーターや口紅を選ぶように、ことばも選んでみたらどうだろう。ことばのお洒落は、ファッションのように遠目で人を引きつけはしない。無料で手に入る最高のアクセサリーである。流行もなく、一生使えるお得な「品」である。ただし、どこのブティックをのぞいても売ってはいないから、身につけるには努力がいる。本を読む。流行語は使わない。人真似はしない―何でもいいから手近なところから始めたらどうだろうか。長い人生でここ一番というときにモノを言うのは、ファッションではなくて、ことばではないのかな。*1

 文章読本の書き手は、おおむね高学歴で、書くのにひいで、それを生かした職業につくことができ、しかもその道で一定の成功をおさめた人たちである。つまりごく恵まれた衣装もち、鼻もちならない上流階級の婆さんみたいな人たちだ。そう思えば、有名デザイナーの衣装(文章)を「名文」と称してあいらがたがるのも、下々の衣装(文章)を「駄文」「悪文」と読んで平気で小ばかにできるのも、主張が少々保守的なのも、小言が鼻につくのも、階級的な性癖として許してやるべきだろう。持てる者である彼らには、持たざる者の衣装(文章)が礼を逸して見える。文章の世界を下から上へと昇ってきた彼らには、「横の多様性」より「縦の序列」が気になるのだ。
 しかし、好むと好まざるとにかかわらず、縦の序列で文章を計るやり方はやがて滅びる。というかすでにダサい。双方向型のメディア社会で求められるのは、舞台の上でフラッシュを浴びるためではない、コミュニケーション型の文章であるはずだ。
 […]修辞の技法をたくさん知っていることは、着こなしの技や知恵をたくさんもつこと、ファッションの引き出しを増やすことである。
 (中略)
 コミュニケーション意識をみんながもてば、文章を日常の側に奪取できるだけではなく、印刷言語の世界からも、無意味に難解な文章や自己中心的な文章は駆逐されるはずなのだ。基本になるのは対面型の文章であって、劇場型の文章はその延長線でしかないのだよ。
 そんなことをいっていたら堅い文章がますます書けなくなる?
 んなもの、いちいち心配しなくて大丈夫だよ。文は服だっていったじゃん。服だもん。必要ならば、TPOごとに着替えりゃいいのだ。で、服だもん。いつどこでどんなものを着るかは、本来人に指図されるようなものではないである。*2

*1:向田邦子『夜中の薔薇』p73

*2:斉藤美奈子文章読本さん江』p256-258