「ロープ」を観る。

 今日は、久々の観劇。観てきたのは、野田秀樹「ロープ」@シアターコクーン

 今回の感想はと言うと、野田秀樹の劇作が転回したということにつきると思う。というのも、野田秀樹というと、「コトバ遊び」とか「世界が交錯していく劇構造」というような言葉で語られることが多いのだけれども、今回は、そうした「コトバ遊び」も「交錯していく世界が一つへと収斂していく」ことが見られなかった。

 要するに、寓話性をもった「遊び」ではなく、リアルな「語り部」へと、つまりは彼自身の世界についての「実況中継」をより前面にシンプルに押し出したものになっている気がしてならならない。

 もちろん「オイル」もかなりメッセージ性の強いものだったけれど、どこか「軽さ」があったし、役者もよく飛び跳ねていた。そして、その劇の特徴とも言える、最後の独白によるカタルシスというか「泣き」もあった。

 けれども、それが今回は「メッセージ」性が前面に出て(たぶん舞台セットにあったスクリーンは明らかに墓碑銘であった)、プロレス以外でほとんど役者は「跳躍」することもなく、終幕後も何か、「嘔吐」による応答をしたくなるような、後味の悪さを持たせるような物語になっていたと思う。

 やはり、それは「これでもか」というくらいにコトバがたたみかけられ、そして、乱射され、カタルシスを味あわせるというよりは、目をそむけてたくなるような「暴力」を、酔わすコトバというよりは、実況によるストレートなコトバが観客席に投げ込まれていていったからだと思う。

 そこで、思い出したのは90年代の野田秀樹への長谷部浩によるインタビューである。

 たぶん90年代に入って『透明人間の蒸気』(91年)を書いたときに、生の言葉を使うことを覚えたのかな。「神様は信じるけど、神様は信じられない。/どうして?/神様は見えるけど、コトバは見えないもの」。そういうセリフを書いたときに「ああ、お客はひっかかったな」と思った(笑)。「ほら来た、ほら来た」って。そういう言葉にひっかかるんですよ。
 それは音楽に顕著なんです。音楽の詞があの時期から生に変わっていったよね。俺が若いときには気持ち悪いって思っていた「がんばろう」とか「元気出せよ」とかいう言葉がそのまま詞になった。今でいうと、SMAPなんかもそうでしょう。若い人たちは言葉に無防備で、素直に全部聞く。ビジュアルに強くなったぶん、言葉に対しての距離感がもてなくなっているよね。だからオカルトなんかにも騙されやすい。*1

 さらに、こうもいっている。

 古い文学論みたいに、作品を人間の人生で語りたくないってのがあったから。
 だって、じぶんの人生とどのくらいの距離をおいて作品を作っていくかだから、まあ確かにそれをドップリ出す人もいえるけど。いすぎるからまずいんだと思うんだけどね。*2

 そして、今回の公演パンフレットには「スス加減」というタイトルでこう書かれている。

 「何かをとてつもなく愛している自分」を愛しています。とおおっぴらにいっているようなスス加減なのである。
 他人見せる感動の涙なんていうのも、そうではないだろうか。「映画に感動している自分」に感動している。
 私は、その自分たちとの距離感のなさが嫌いである。さらに私は、自分との距離ばかりでなく、家族とか故郷とか国家との距離感もない人間も嫌いである。
 […]距離を失った熱狂というのは、厄介なものである。
 私は、この芝居で『距離感のない熱狂の中で、繰り広げられる暴力』を描いた。だが、そのことを本当に郷里間をもって描くことができたか。それを判断できるのは、いつもリングサイドにいる醒めた第三者だけである。*3

 ここから明らかなように、野田秀樹自身は「距離感」というものを強調している。そのことはきっと遊眠社時代から、舞台上で「跳躍」してきた身体と無関係ではないだろう。

 あるいは、「贋作 桜の森の満開の下」の大工のように、コトバの職人としてコトバを削りだしてきたからこその、そして、「贋作 罪と罰」のパンフレットの冒頭部分で触れていた、「理想」というコトバによって、殺人の正当化していった70年代の内ゲバを目の前で目撃したことによる、コトバへの「距離感」であるのだろう。

 しかし今回は、あえてストレートなコトバをつかっていた。

 その理由は、インタビューで語っていた、人々の「生の言葉にたいする無防備さ」にあるのだろうと思う。つまり、「美しい国」「品格」といったコトバが恥ずかしげもなく語られ、その語りが違和感なく「するり」と飲み込まれてしまう現在だからこそ、それを逆手にとって、敢えてストレートなコトバによって、「暴力」を語ったのではないか。

 そのことは、今回の「ロープ」で明らかなように、野田秀樹の年齢あるいは眼の問題とも関係して、舞台で「跳躍しなくなった」こともあるだろう。

 すなわち、役者野田秀樹が、地上から「距離をもつ」トリックスターではなく、「距離感を保てなくなった」人々に対して、あえて「生のコトバ」を語るカタルシスをもった、「地に足をつけた」語り部として変貌を遂げた、そんなことを強く思わせる今日の舞台だった。

*1:長谷部浩(1998)『盗まれたリアル』アスキー p49

*2:同書、p60

*3:野田地図第12回公演「ロープ」パンフレット