内なる声と自己尊重

 止まってはいけない。止まったら、とどこってしまう。だから、休むことも許されないと思っていた。

 そう思っていたら、休んだ方がよい事態に直面した。

 確かに、仕事に行くという選択肢もあった。けれども、緊張の糸が切れたというのか、ひと休憩してもいいんじゃないのか、という言葉が頭をよぎった。きっとどうにかなるだろう、そんなふうに思えてきた。

 無責任というばそうだろう。けれども、休みたかった。休まずにはいられなかった。無理をするのではなく、休んじゃえば、そう内なる声が聞こえてきた。

 結果、休んだら、晴れ晴れとした。もちろん、やるべき役割を他人がやることになったのは申し訳ないし、きっとてんやわんやしているだろう。

 でも、自分の人生なんだ。本音が聞こえてきたのだ。そして、やっぱり自分は責任ある立場よりも、多少、無責任でいい立場で、程よく責任をもちつつ、好き勝手やることがいいのだと痛感した。

強い心の追求

 よい夏休みを過ごせた。夏休み前にやるべき仕事が終わらず、持ち帰ってやろうと思ったけれど、やれず仕舞いだった。そんなもんだ。休みは休みとしてすっきりさせるべきなんだ。

 やるべきことが頭から離れなかったとしても、「今ここ」を味わえる精神性が、自分にとって大事なんだと思う。「今ここ」の積み重ねが物事の達成に繋がっていく。パートナーを見ながら、強く感じる。

 雑念や焦りによって、すぐに心が乱されてしまう。そんな自分を知っている。そんな自分がもどかしい。

 「今ここ」を淡々と積み重ねられるようになりたい。

 だからこそ、きっとマインドフルネスや瞑想が気になるのだろう。「今、この時間」を味わい尽くせる精神性をもちたい。それは不動の心ともいえるかもしれない。不動とは全く揺らがないという硬質さではなく、ブレずにその時その時を味わえるというしなやかでもある強い心だ。

 そう、今の自分に必要なのは、強い心だ。

 

 

 

 

 

 

 

散財と発散

 夏は散財してしまう。気持ちが大きくなって、気付いた時には底をつき始める。何度も繰り返しているけど、やってしまう。それは、我慢やストレスの発散にもなっているのだろう。タガが外れたように、飲み、買い、使ってしまう。

 

 自分でも全く把握できていない。その刹那に抱く欲望を満たすことで、自分が満たされる。ということは、散財する瞬間とは、満たされない自分の表出なのかもしれない。使ったお金は戻ってこない。

 

 悔いたところで仕方がない。けれど、そんな使い方も自分らしい。ただ、そのことを意識するあまりに、自分が汲々となるのもばからしい。言えるのは、使うことによって、新たな経験を手に入れらる。やはり、ケチっては得られないものもある。ならば、限度を決めることだ。

 

 ここまでという線引きをすることで、我慢と発散のストレスが緩和されるのかもしれない。

未来への迷いを超えて

 自分で蓋をしていた感情に気付く。感情を自分の中にとどめ続けたことで、病んでいってのかもしれない。病むことで、見たくない、隠していたことと向き合う。ひとつひとつ向き合うことで、いろんな感情、記憶がつながり、そして顔を出す。弱い自分、ダメな自分が現れる。

 

 顕になる自分を情けなく思う。心配に思う。不安に思う。

 

 生きることは、こんなにも困難や葛藤が付き纏うものなのか。

 

 自分の未来に何が待っているなんてわからない。なんとなく流れで下した決断が、実は人生の大きな分岐点になっている。時は戻らない。戻らないことは分かっている。だから余計に後悔の感情が湧き上がる。なかなか今を肯定できない。

 

 今を肯定できるようになりたいな。

何になりたかったのか?

 このブログを始めた頃はまだ20代だった。そして、いま不惑の40代。

 迷ってばかりいる。自分はどうなりたいのか、なりたかったのか、なんだか見えているようで見えていない。時間ばかりが過ぎていった。

 年齢的なタイムリミットも出てきた。何者であろうかとした自分と、何者にもなれなかった自分がいる。ひとり晩酌しながら、ジャズを聴き、ブログを書いている自分がいる。

 きっと自分は教養人、知識人、そんな部類の人間になりたかったんだろうと思う。芸術、文学、映画、音楽、哲学、縦横無尽に語れる大人になりたかった。文化の香りのする文化人を気取りたかった。

 けれども、現実はそううまく行かない。食べてくために、働かなくてはならない。自由になる時間やお金は限度がある。そういう現実の中であがいている自分を酒を飲みながら発見してしまった。

内なる声

 内なる声に耳を傾けることは意外に難しい。なんとなく刺激に対してすぐに飛びついてしまう。

 本当にしたいことなのか、食べたいのか、飲みたいのか、惰性で流されてしまう。確かに直感で動くことで、好転することもあるだろう。

 最近、まず自分に問いかけることの大切さを感じている。自身を更新していきたいと思うのならば、どう更新したいのか、その方向性は自分の心の羅針盤で決めていかなければならない。

 先週、一人飲みで感じた。ラーメンを食べたけど、なんか満たされなかった。お腹は満たされた。けれども、こころは満たされない。バーで三杯じっくり飲んだ。1時間、贅沢な時間を過ごした。なんだか、ゆっくりじっくりした時間で自分が満たされた。「ねばならぬ」で速度を求めれば、求めるほど、自分が見失われていく。

 「ねばならない」思考ではなく、自分とじっくりと向き合い、自分のこころをコツコツと掘り下げたい。

マインドフルネスがキーワード

 なんとなくで、たくさんのものを背負い込んでしまう。それによって、緩むときに緩ませることもできず、かといって、物事を進めることもできず、ダラダラと時間を過ごしてしまう。

 そうしたメリハリのなさ、思い切りのなさには見通しの甘さがある。いまやるべきは何か、集中すべきは何か、その見極めが下手クソなのだ。

 それによって、ぐずぐず悩んでいる。ダラダラ過ごして失った時間を後悔している。さらに、その後悔を引きずってしまう。改めて、いまここに集中できない、マインドフルネスな状態になることの難しさを感じている。

 セルフリノベーションの鍵はマインドフルネスである。いま、ここで何をすべきかを見極め、割り切って、集中することだ。思い切りと集中の欠如が自己否定の感情を生んでいる。

 今年も四半期が過ぎた。次の4〜6のキーワードは、見極めと割り切りによるマインドフルネスである。